グレ教員の日々の感想

学校嫌いな小学校支援学級教員。日々の思いを忘れないように書くブログ。子育て、学校、読んだ本とか。専門は発達障害支援。

休校になってわかる「学校は勉強の場ではない」ということ

さて、安部首相の要請を受けて全国の小中学校が一斉休校になって1週間ほど経ちました。
 
私は心身落ち着いた毎日を過ごしています。仕事もだいぶ目処が立ってきました。でも、暇ってほど暇じゃないね。成績処理とかクラス編成とかやってるので。それに加えて預かり保育とかもやってるからね。今んとこそんなに時間が余るわけじゃなさそう。
 
たぶん3月は本来前日午前中登校とかにしてやっと適正な業務量。
 
さて、今回は休校騒動を見て思ったことを書く。あんまりまとまってないし、思ってる思考をタラタラ開示して言ってるだけ。
 

最初にまとめ。

今回の全国休校騒動で、「誰も学校に《学業》ってそんなに期待してないよね」って再確認した話。
 

一斉休校要請については賛成

私は今回、安部首相の出した一斉休校要請には賛成な立場。今回の一斉休校要請に対する批判的意見としては、「急すぎる」「学校だけ閉めても会社や電車が動いていたら意味がない」「学校だけ閉めて、(より狭い)学童に預けたら意味がない」という意見が多いように感じる。意見としては、「学校が休みになったら親が働きに行けない」それについては、確かにその通りだ、と思う。私も子どもを育てる親の身なので気持ちはわかる。だが、その意見をふまえた上で、私は一斉休校には賛成である。なんなら、「もっと早い段階で休校にすべきだった」とさえ思っている。
 

学校は独自で休校なんて決めきれない。学校が今までやっていたやり方を変えるのは、「偉い人に言われたとき」か「保護者に言われたとき」くらいだ。今回の例で言うと、自治体レベルや学校単体での判断で休校なんてしようもんなら、地域や保護者からどんなクレームが来るかわからない。だから学校単独で「休校」なんて判断は絶対に出来なかったと思う。「テレビで」「総理大臣が」全国民に向けて発信したことで、速やかな休校措置がとられた。正直、現場はとても混乱した。だけど「感染拡大防止」の目的だったら、なるべく早く休校にすべきなのだから、多少強引であっても行政からの鶴の一声は必要だった場面だったと思う。

 

テレビで大々的に総理大臣が言ったのも重要だったでしょうね。ああやって言ってくれたおかげで仕事を休みやすくなった人も少しはいるのではないでしょうか。全国的に休校措置をやったことのメリットはそういうところにある気がしている。
 

学校はリスク背負って行くような場所ではない 

私が一斉休校を支持したのは、「集団が日常的に集まる場所」で「止めてもあまり問題がない場所」が学校くらいしかないからである。他の営利施設はなかなか止めづらいし、感染のスピードを少しでも抑えるなら学校止めるくらいしかないんじゃね、って思う。(ちなみに個人的には、学校を止めた上で感染は日本中に広がると思っている。が、ここでは主旨と外れるので言及しない)
 
止めても問題ない場所、と言ったが、感染リスクと得られるリターンが小さい場所という認識が強い。小学校は繁殖したい菌にとっては絶好の場所だと思う。狭い教室に手も満足に洗うことが出来ない人間(児童)たくさんがいて、デフォルトで子ども同士の距離が近いし、互いにべたべた触れ合う。どんなに注意しても、学校にいれば風邪は伝染する。
 
まぁ簡単に言えば、感染症が国全体で流行ったときに、学校なんて「ハイリスクローリターン」の場所なんだから来なくてよくね?とずっと思っていたし、安部首相が一斉休校を要請するだいぶ前から休校をすべきと考えていた。
まぁ2月27日(木)18:30に、安部首相がああやって言ったことで、世間がざわつき、社会の多くが私と同じ感覚を持っていることを再確認することが出来た。と、勝手に思っている。

 休校による子どもの学業の心配をしない人たち

さて、今日の主題。 
 
「休校中の学習の保障はどうなるんですか!」という問い合わせが保護者からも教師側からも上がらなかったことだ。
 
教師側は普段は「学校は勉強する場所」と言いながら、今回の休校措置の際、休みの間のこどもの勉強の心配をする人はほとんどいなかった。未履修単元のことを心配する人はいたけどね。同じように休校措置をとっている中国では、インターネットを介したリモート授業も行われているなんて話も聞くが、正直、そんなのこのIT社会でごくごくあたりまえのことだと思う。
重要なのは、日本の小中学校は「たかだが2週間登校できないくらいで学習がストップしてしまう」ということであり、その問題に対して、令和のこの時代になるまで何も「対策をしてこなかった」ということである。まぁ簡単に言うと、「日本は教育について重要視していない」と言い換えてもいいのだろう。だから日本の教育基盤は、数十年前からたいした進化もしていない。
 
その国の姿勢は現場に伝わっている。私が、今年度小学校で働きはじめて違和感をもったのが、「列にきれいに並ばないこと」や「授業中おしゃべりをする」みたいなことにはめちゃくちゃ目くじらを立て指導する教師が、授業を理解できていない子どもに対して何にも手立てを講じず「この子は勉強が苦手だから仕方ない」と言い捨てる、ような状況がたくさんのクラスで見られることである。算数のように積み上げ型の科目だと、たとえば2年生の算数の内容を理解していないと、3年生の算数の内容はより理解できない、ということが発生するのにもかかわらず、だ。(私は特別支援学級担任という立場上、多くのクラスに出入りしている)学校という組織が「勉強する場所」と主張するならば、「子どもが学習内容を習得できたかどうか」の評価が目的を達成できているかを測る指標であるはずだが、そこにほとんど視点が置かれないのはおかしい。私は職場の先生の態度から、”小学校の先生は「勉強を理解させる」ことにそんなに重きを置いていない”と結論付けるに至った。それよりも、学校生活で人に迷惑をかけない、とか集会で集団の動きがそろう、とかそういうところが重要でなんだろうと思っている。
 
まぁそれにしてもそもそも学習水準の異なる35人を1人の授業者が指導する、っていうシステム自体が「一人一人に最適な学習環境を提供する」気が全くないので、そのシステム上でしか指導が出来ない教師側の立場は「勉強は二の次」となるのは至極当然な気もする。
 
そして今の保護者側の多くもおそらく、学校に最も期待しているのは”学業以外の何か”だ。もしかしたら子どもの遊び場だと思っているかもしれないし、給食を食べさせてくれることかもしれないし、自分が働いている間子どもを預かってくれることかもしれない。
だからこそ、今回の休校が決まったとき、ネットで見られた小学生の親の声は「学習はどうするんだ」という声はなく、「食事をどうすればいんだ」「どうやって働きに行くんだ」「子どもはどこで遊ばせるんだ」なんて声が多数派にあがったのではないか。
言ってしまえば学校に”学習効果は期待していない”のだろう。だから家庭は学習塾を利用する。学校という場が”学習”に重きを置いていない、ことを薄々もしくは明確に認識しているからではないか。
 

その認識は残念ながら正しい。

どっちがさきかはわからないが、学校に”学習効果”を期待してはいけない、という認識は悲しいかな小学校の現実を的確に捉えた考えだと思っている。私自身は内部に入り小学校の現実に気づいたこともあり、全ての保護者が勿論そう思っているわけではないだろうが。
なので、私も自分のこどもが小学校に上がった際には「小学校に加えて学習する場を用意する」とか「私立の小学校に行かせる」などの対応をするだろう。また、自分の知り合いが「うちの子は小学校でちゃんと勉強しているか大丈夫よ」みたいなことを言ったら全力で説得するかもしれない。それくらい小学校の学習軽視の現状に辟易させられ、なんなら絶望させられてているのが今の私である。
 

学校の先生はがんばっていると思う

繰り返し断っておくが、学校の先生を責めてはいないよ。先生方が”結果的に”学力を二の次においているのは社会からの要請だから。そもそも1クラス35人とかを一人で指導するシステムで、一人一人の学習を保障するのは物理的に不可能であるし、日常的に頻繁に寄せられる地域や保護者からのクレームの多くは学業に関係のないことであるし、行事のたびにショー(運動会の組み体操、ダンス、二分の一成人式とか)を求められ、辞めようもんなら「去年はやっていたのに」などの批判が浴びせられるし。こんなのが日常茶飯事である学校の視点として、地域や保護者は子どもの学習よりもそれ以外の物を学校に求めている、と判断するのは自然だから。
 
学校は”学業が一番”と思っている先生もきっといるのだろうけど、システムががそうなっていないのでまぁ厳しいよね。

 学力軽視は少しずつ国を滅ぼすよ

「学校では、勉強も大事だけど、それよりももっと大切なこといっぱいを学ぶ場所です。!」みたいなことありますけどね。
どうなんでしょうね。私は将来的に日本がそれでよくなっていくとは思いません。勉強を”最も大事なこと”に置いた上で、ほかの”大事なこと”を学ぶために小学校段階からやっていく必要がある気がするんですがね。
 
そんな感じのことを、日々思っていたけど、今回の休校騒動で再確認した、って感じの記事でした。
 
以上!!