グレ教員の日々の感想

学校嫌いな小学校支援学級教員。日々の思いを忘れないように書くブログ。子育て、学校、読んだ本とか。専門は発達障害支援。

「この子は”支援学級”よりも”特別支援学校”に通ったほうがいい」について考えていること

 

今日は珍しく理想論というか綺麗事多め。

「この子は”支援学級”よりも”支援学校”に通ったほうがいい」

この論は特別支援学校に勤めていた頃にはほとんど出会うことのない議論であったが、小学校に勤めだしてからは頻繁に聞く話題だし、周囲もその話題を当たり前のものとして認識しているらしかった。
特別支援学校の中にいるときには、あまり気づかない視点だったな、支援学級で働いて初めて得られた視点だったな、と思いながら少し思ったことをまとめている。

 

※いつものように思ったことを連連と述べていきますが、特定の誰かの考え方や選択判断を批判するものではないということを予め述べておきます。
もし私の表現に不適切な部分がありましたら教えていただければ幸いです。

※一応対象児童が小学校の年齢前提の話ですすめています。

 

親の選択に対して向けられた言葉

「この子は”支援学級”に在籍しているよりも、”支援学校”に通ったほうがためになる」
と、小学校の支援学級の担任や関係の先生の口から発せられるのをしばしば耳にする。

その文脈は特に、就学判定で「特別支援学校”適”」に判定されたが、親の(場合によっては本人の)希望で特別支援”学級”に通っている児童に対して発せられる。

「本人がよくわかっていない中でいろんな活動に参加させられてかわいそう」
「同じレベルの友達ができないのに通っている意味があるのだろうか。」
「本人にもストレスが溜まる」


と大体の場合、追って「子供がかわいそう。」という視点の話が出てくる。もちろんそれは近くで子供を見ている支援者の本心なんだろう。というか大体の場合、本当にその現場においては、子供が「支援学級にいるメリットを享受できていない(あるいは支援学級にいるデメリットが大きい)」ということなんだろう、と思う。

しかしそれは結局、支援学校”適”と判断されながら支援学級に通う保護者に対して「あなたの判断間違ってますよ」って言いたい、という文脈なんだろうと思う。最終的にその子供をどこに通わせているかを決めているのは親なんだから。

「この子を支援学校に行かせずに支援学級に通わせるなんて親の見栄だよね」
現場でここまで言っちゃう支援者もいなくもない。仮にそこまで言わなくても「子供がかわいそう」って言ってる時点で同じことだと思うが。
別にそれについては、否定するつもりもないし、担任視点で保護者を見たときに「ホントに子供のこと考えているのかな・・・」と思う保護者も当然いる。なので、口にはせずとも「この子を支援学校に行かせずに支援学級に通わせるなんて親の見栄だよね」と言いたくなる”支援学級”側の視点も大いにわかる。

 

今は支援学級が負担を押し付けられている

 

「この子は支援学級に在籍しているよりも、”支援学校”に通ったほうがためになる」の裏には、支援学級で支援をする職員の苦労が垣間見える。
おそらく、


「エレベーターとか施設が通常の小学校にはない」
「その子に手がかかりすぎて他の子に手が回らない」
「障害が重度なんだから専門性が高い支援学校の先生に見てもらったほうが良い」
「通常学級と交流授業が難しい」

といった意図、が含まれているんじゃないかと想像する。


上記は正直、小学校の特別支援学級界隈ではよくあるだと予測されるし、結局”支援学級”側の「受け入れるのに必要なシステムが足りていない」という悲鳴なんだと思う。

変な話、理想論だけでいえば、上記の視点は特段クリティカルではない。

 

「本人がよくわかっていない中でいろんな活動に参加させられてかわいそう」
→わかることを教えられるようにマンツーで指導者がつけばよい。

「エレベーターとか施設が通常の小学校にはない」
→すべての小学校にエレベーターがつけばよい

「その子に手がかかりすぎて他の子に手が回らない」
→在籍児童の障害の程度に合わせて人員が配置されれば良い

「障害が重度なんだから専門性が高い支援学校の先生に見てもらったほうが良い」
→専門性持った先生が通常小学校に配置されればよい

「通常学級と交流授業が難しい」
→その子につく人員と授業内容の問題。

「同じレベルの友達ができないのに通っている意味があるのだろうか。」
→同等のレベルの子が余裕で入ってこれる環境であればよい

 

こんな風に、人員と金が無限にあれば、障害の重度に関わらず、すべての児童が通常の小学校に通うことは理論上可能である。

しかし現実は難しい。人員にも限りがあるし予算にも限りがある。だから「線引」をしている状態なだけだ。

その中で、「”支援学級”か”支援学校”」かその線引が緩やかになっているのがここ最近らしい。重度の子が”支援学校適”とされたが、親の希望で”支援学級”に入ってくる。その際に負担を強いられているのは”支援学級”の先生だったり支援員だったりする。正直気の毒だとは思う。だから「この子は”支援学級”に在籍しているよりも、”支援学校”に通ったほうがためになる」と口にしたくなるのも当然だろう。

 

しかし、真に不満を向けるべき対象は、支援学級を選択をした「保護者」ではなく、「受け入れたのに十分なシステムを用意しない行政」ではないか。

支援学校と支援学級の線引を緩くするならば、必要なときに必要な人員を速攻で配置するべきだし、必要な設備(医療的ケア、エレベーター、スロープなど)は先進国ならすべての学校にあって然るべきだろう。とさえ思う。
それを設置しない行政については正直怠慢だと思うし、そういった声は当事者もしくは現場から届けない限り行政には伝わらんだろうな、と思っている。

 

”支援学校”に行かせたくない親の気持ち


正直、就学相談をしていても、保護者の気持ちにより添えないことが多々ある。というかわからんことのほうが多い。
というか何人も子供を支援・指導してきて、何人もその成長を見てきた「支援者」と「一度も障害児を育てたことがなく、これまでの人生でも”特別支援”とか変わったこなかった親”」とで視点が一致するわけがない。だから支援者側は「親にしかわからない葛藤がある」前提で接するべきだと思う。

 

”支援学校”と”支援学級”両方に勤めて感じるのは「支援学校に行くことで、『得られなくなる経験』」は本当に多い」ということである。「失うものは多い」と読み替えても良い。(何を失うのかは、言語化するのが難しいので今回は割愛する)

”支援学校”と”支援学級”で迷う保護者は意識的か無意識的かわからないが、それを感じているから迷うのかもしれない。

我々支援者目線では、「”支援学校”に行ったほうが、失うものよりもメリットが多いよ」と思うのだが、それは客観視できるからであって。未来の見えない不安や社会からの偏見など、日々様々な困難や苦悩を味わっている(であろう)当事者にしかわからない部分もあるだろう。それを支援者とはいえ、マジョリティ側から「障害受容できていない」とか「見栄」とかそんな言葉で片付けてしまうのも支援者側の奢りのような気もしている。

 

別に親の見栄でもよくないか

「通常の学校に通わせたい親の見栄」。確かにそう言いたくなるのもわかる、が。
じゃあ見栄を張らせているのは一体何かというと。

結局、支援学級とか支援学校とか、とりあえずラベリングして判断し、線引しようとする日本社会の慣習もあるんじゃないかな。
保護者が自分の子を支援級に入れようとしないのも、それまでその保護者が生活してきて持っている”障害”に対するイメージだったりとか、あるいは社会が”障害者”に持ってるイメージから、人からどう見られるか、を気にしてのことだろうし。

そのイメージが作られてきたのには、ずっと”障害児”を線引して別の場所で実質的に”隔離”してきた学校にも責任はあるでしょう。”支援学校”とか”障害”のこと知らずに生きてきた親が、障害児生んだ瞬間に”親の責任”とか”適切な判断”を求められるのも酷かな、と思っている。(少なくとも義務教育で”障害児を生んだら”みたいな内容は教わらないわけだし。)

 
思考停止せず

あくまで私個人の思想になってしまうが、「誰でも個人が好きな場所で学習できる社会」が理想だと思っている。
現実には難しいところも多々あると思うし、いろんな妥協や調整を経て、今の就学システムになっていると思う。

が、「今のシステムが絶対よい」わけではないから。そこは支援学校だろうが支援学級だろうが、支援に関わっている職員には、思考停止しないでほしいな、と思う。

特別支援に限らず、学校の先生って既存のシステムを盲信してしまいがちだから特に思う。(まぁそれは必要な予算がつかなかったり、全然課題が解決されない現状の教育に対して半ば諦めがはいっている部分もあるだろうが)
既存のシステムに疑問を持つ視点は常に必要なんじゃないかと思う。

だから、保護者の判断も大切にしたい。傍から見たら「親の見栄」だとしても、イチ「当事者の声」だから。


行政は、内部(現場)の声はほとんど届かないけど、外部の声には弱い、っていう感覚、教育現場でやっていたら感じるから。
どんな動機から始まったとしても、なにか当事者の声から社会が変わることもある気がする。「物分りの悪い親」で片付けるのは簡単だけど、そこで思考停止したくない、と私は思っている。

 

さらに理想論を重ねると


「障害もってても、学校とか好きに選択できるし、親も子供も全然幸せになれるよ」って社会のほうが、子供産む人増えると思うよ。
ってひろゆき氏の受け売り。
私もそっち方向の思考はもっていたいな。