グレ教員の日々の感想

学校嫌いな小学校支援学級教員。日々の思いを忘れないように書くブログ。子育て、学校、読んだ本とか。専門は発達障害支援。

教員がiPadAir4 を買ってみた【Pro9.7からの買い替え】

これまで仕事とプライベート兼用でiPadPro9.7を使ってきたが、最近動作が重くなって安定せず、使用感に支障がでてきはじめてしまったのでそろそろ買い替えたいと思っていた矢先、発表されたiPadAirの4世代目を買ってみた。完全乗り換えで、Pro9.7inchは売却する予定。Apple製品の引き継ぎ作業はやっぱり楽。無線でほっとくだけでほぼ前とおなじ環境を新しい端末内に用意してもらえるのはありがたい。

買い替えで迷った対抗馬はiPadPro11inch。整備済品もふまえ死ぬほど迷ったがこっちにした。

購入したのはWifiモデル64GB。(グリーン)

正直Proの11インチと死ぬほど迷ってこっちにした。

 

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この記事書いてるときは到着して12時間くらいしか経ってないのでちょこっと第一印象って感じ。

 

Pro11インチとAir4で迷った理由

①FaceID

学校では常時マスクで行動してるからこそ、FaceIDを活かせないProモデルにする気が起きなかった。

画面を広く取りつつTouchIDを残したAirはこのマスク時代に合わせた画期的な方法だったと思う。(欲を言えばiPhone12にも同じことができなかったかな?)とは思うが。

 

②値段

Air4はストレージが64GBと256GBの選択しかない。多分普通に使ってたら64GBは少ない。ミドル〜ヘビーユーザーの選択肢を強制的に256GBに向かわせ無駄なストレージを買わせる売り方はさすがAppleさんって感じ。

こうなってくると128GBの選択があるPro11inchも光って見えるのが難しいところだったが。

でも結局はやっぱり最安のWifi64GBにした。重いファイルはPCに移し、なるべくiPadに入れないようにしたり、うまくDropBoxとかGoogleドライブとか使ってiPadの中を軽くしていこうと思ってる。

ApplePencil2も買わなきゃいけなかったので、最低限の性能だけキープできればなるべく安く抑えたかった。前機のiPadPro9.7を売却して半分くらいは補填できる気がしてる。

 

iPadAir4使ってみての最初の印象。

画面の広さは正義。

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左がAir4で右がPro9.7。

これはプライベートで生きるポイント。学校で使う分にこの画面の差はまったくといっていいほど関係ない。

勉強するときに2分割で左に教科書右にノート出したりしてると、Pro9.7だと狭いな、って思うこと多々あったが、Air4の10.9inchくらいあるとぜんぜん変わる。正直12.9inchはでかすぎて使いづらいと思っているから10.9inchのAirは画面サイズとしてめちゃくちゃいいと思ってる。

 

スピーカーは不満ない。

心配していた点として、Pro11inchの4スピーカーと比べて、Air4の2スピーカーってどうなのかな、って思ってた。9.7inchのときは4スピーカーでとてもいいなと思っていたからこそ。結論、Air4のスピーカーは全然いいと思う。

「4つスピーカー穴があるのに2つからしか音が出なくて不満」みたいな意見もみかけたけど、私の感覚ではそんなに気にならなかった。教室でAir4単体で音楽流してもそれなりに教室全体に聞こえるくらいのスピーカーのパワーはあると思う。(多分やらないけど)縦向きで使ってる時は、音の聞こえ方がいまいちなのはわかるが、そもそもiPadを縦で持ちながら音を出すことほとんどないので私にとっては関係ない。

 

TouchIDはまだ慣れない。

 

 

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Pro9.7のころはホームボタンのTouchIDは認証ミスってほとんどなかったんだけど、Air4のTouchIDは正面から見えない分、うまく押せなくて認証しないことが多々ある。たぶん指の真ん中で押せないときにミスるんだと思うけど。今んとこ4回に1回は失敗する。こんだけ失敗するなら学校内でのロック解除をパスコードでやるって妥協してでもPro11inchにすればよかったとも少し思った。この先慣れたら改善されるんだろうか。

 

USB-C端子はやっぱりいい。

Pro9.7はLightning端子だったけど、Lightning端子ってしょっちゅう壊れるし接続安定しないから、USB-C端子になったのは嬉しい。息子が小さい頃、Lightning端子を口に入れられて壊したケーブルが多数だったんだけど、なぜかUSB-Cケーブルは口に入れられてもひとつも壊れなかったからUSB-Cは優秀だと思ってる(いやそこじゃない)。

あとイヤホンジャックは最近いらないと思ってきてるし、しばらく有線のイヤホン使ってなかったからイヤホンジャックなくなったのは気にならない。動画編集とか音楽とかしたくなったらPCでやればいいと思ってる。

アプリの処理は早そう。

まぁ4年くらい前のモデルと比べるのもあれだけど,Pro9.7inchと比べてもめちゃくちゃ処理が早い。それだけでも買い替えた幸福は感じてる。

 

 

あとは職場での使用感とかだよね。

また感想いつか言うかも。

【自分語り】部活教員だった父親が家族サービスで大スベリしたことを思い出したので書く。

私は現在小学校の特別支援学級で働いている。前勤務校は特別支援学校で勤務していたが、人事異動で打診され、小学校に異動してきた。異動の打診があったときは、「小学校」「中学校」の選択肢があったが、中学校は強く拒否をした。「部活をもつ」可能性があったからだ。今後も「部活の可能性がある」学校には異動希望は出さないと決めている。

 

正直すっかり忘れて居たのだけれど、何故かふと、部活教員だった父親が家族サービスで大スベリしたことを思い出したので、自分語りの自己満足な文になることが確定していることも承知しながら、なんとなく思考の整理のために書いている。

 

 

今からだいたい20年くらい前の話。私の父親も今の私と同じ教員だった。

今私と違うのは中学校教員であること。父親は私が中学校に上がる頃には、管理職になっていたから、部活指導も学校運営も(おそらく)熱心にやっていたのだろう、と今だからこそ推測できる。私の幼少期の記憶の父は、とりあえず毎日忙しそうにしていたな、ということしかない。

父はほとんどの土曜日、日曜日の昼間は仕事に行っていた。今思えば、「部活指導」や「平日の準備」などをしていたのだろう。

私は下に二人の兄弟がいるが、土曜日・日曜日の日中に家族みんなで遊びにいった、みたいな記憶はあまりない。ただ、土曜の夜は割と豪勢な外食をしていた。私達兄弟の中では「父親はご飯を一緒に食べる人」という認識だったと思う。

 

私達兄弟にとって小さい頃からそれが当たり前だったから、「父と遊びたい」という感覚は思ったことはほとんどなかったし、「父は昼間にいないもん」と認識していた。そんなんで私達兄弟の中では、「土曜日日曜日は、近所の友だちと遊ぶ日」になっていた。

 

そんな中、私が小6の頃、金曜の夜に父親が突然「明日は家族全員で遊びに行くぞ」と言いだし、めちゃくちゃ親に対する冷めた気持ちを確認したのだけは覚えている。そのときの気持ちは「別に行きたくない」「友達と遊べなくなる」と思ったと思う。

遊びに行った先は、確か車で少し遠出して行くような観光地だった気がするが、どこに行ったか今でも思い出せない。ただ「楽しくなかった」ことだけは覚えている。おそらく私だけでなく下の兄弟も同じ気持ちだったのだろう。遊びにいった先で母親が見せた「たまには父親に付き合ってあげなよ」という子供を諭すような表情を見せていた。

 

私達兄弟は、別に父親が嫌いだったわけではないと思う。土日の夕食はだいたい一緒に食べていたし、それなりに学校の話などもしていた気もする。が、休みの日に父親がいない生活が普通になりすぎて、「父親と一緒に遊びたい」と思わなくなっていたのだろう。ただそれだけの話だと思う。当時の父親が家族での遊びを計画したのが、「子どもたちと久々に遊びたい」と思ったのか「家族が喜ぶ」と思ったのかはわからない。遊びに行く日程も多忙な父親なりにどうにか都合をつけたのだろう。だが、当時の私達子供達の目には空回りしている父親がただそこにうつっていただけだった。

 

その後私が中学に進学し、私自身が土日部活に明け暮れたのもあってか、その後家族全員で遊びにいった記憶はこれ以降ない。

 

 

私が中学校から高校になるまで、父親は管理職や教育行政などの職を担い、地元の教育活動に尽力していた。教員界隈でいう「出世コース」だ。それに伴い、父親が家にいる時間はさらに少なくなっていた(特に教頭をやっている頃はほとんど家にいなかった)。

奇しくも同じ業種についている今であれば、土日や家族との時間を犠牲にしないと職責を果たせなかったのかもしれないと想像はできる。きっと今の私が努力しても、父と同じ成果を挙げることはできないであろう。そういった意味では父親のことを同じ教員として尊敬している部分もあるのかもしれない。ただ、父のように生きたいとは全く思っていない。

 

 

部活を仕方なくもっている先生は心から気の毒に思うが、今後も私は部活をもつ気はない。

 

大学生時代、発達障害に興味をもち勉強し、これを活かせる仕事、ということで特別支援学校の教員になった。が、専門を活かせる、という理由もさることながら、「部活がない」と知っていたのが、特別支援学校教諭の採用試験に応募した私の中での要素だったと思う。もし、特別支援学校でも中学校と同じように土日の部活があったなら応募していなかったと思う。

教員になった当初こそ、要領の悪さから、休日も仕事をすることが多かったが、今ではなるべくしないようにしているし、平日も妻と家事を分担しながらしてなんとか子供と接することができている。

 

息子が生まれて3年になるが、家族との時間がもてないことに対して年々危機感が強くなっている。おそらく今後ずっと、家族とふれあい続けなければ、ただ自分が家族にとって「必要のない」存在になるだけなのだろう。その状態になってしまっては、そこから家族に入っていくのはほぼ不可能だろう。20年前空回りした父親のように。

 

子供はいずれは親離れする。父親の多忙さとは関係なくあのときの私達兄弟が早めに親離れしていただけなのかもしれない。私の息子もいつかは私の手を離れるとわかっているが、だからこそ、家族との時間を私の人生の中で大事にしたい。

 

「トンデモ採点」のSNS晒しは教員視点「ありがたい」って話

abstract

SNSでの「学校晒し」の炎上が多いが、教員としての一意見を言えば、基本的には「ありがたい」と思っている。教員アカウントが燃えている対象を擁護しているのが多く見受けられるが、「教員全体の信用が余計に落ちるからやめてくれ」と思っている。

 

SNSでの学校晒し

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TwtterやInstagramが流行するにつれ、SNSをやっていない人、が珍しい世の中になってきているなか、ちょっとしたことで「晒され、炎上する」みたいなことは日常茶飯事になってしまった。

 

その中で「うちの子が通う学校では、こんなおかしい先生がいる!!」「こんなおかしい活動をしている!」といった、(おそらく)保護者に寄る「教員晒し」「学校晒し」も時折行われ、拡散され、炎上することがある。

 

私が確認している限り、燃えている内容としては、

「おかしい採点をされた(多くはテストで理不尽に✗をつけられた)」

「おかしい行動の制限が学校からあった」

「先生に〇〇とひどいことを言われた」

という保護者からの主張が投稿となり、

 

「世間の常識から離れすぎてる!」

「学校ってやっぱり〇〇だ!」

 

みたいなリプやリツイートにより拡散され燃え上がる。っていう構図だと思う。

 

私はこの「晒し」について「まぁありがたい」と思っているし、基本的におかしいと世間の人が思ったことはどんどん拡散してくれ、と思っている。

 

晒しを支持する理由①:自分がおかしいことをしそうになっていることに気づける。

私がSNSで教員アカウントを作ってる一つの理由にもなっているが、世間の反応を知ることができるのは大きい。もちろんSNSの意見=世間の意見だと認識することは危険であるが、それでもひとつの意見として受け入れることで、自分が知らず知らずのうちに、世間の常識と離れている実践をしてしまう危険は当然にある。普段少なくとも、教員or子供としか仕事中には関わらないのだから、学校に長くいればいるほど、そのリスクはあがると思っている。だからこそ定期敵に「燃えている実践」を見ることで、「あ、これやったらイカンのやな」と思うことができる。「すぐSNSで晒される怖い時代になったものだ」という教員も多いが、このことだけに絞って言えば、知らず知らずのうちに変な実践を続けて保護者からの信頼を失うよりも、SNSで「人のふり見て我がふり直せる」といういい時代になったなぁ、と私自身は思っている。

 

晒しを支持する理由②:おかしな実践が淘汰される。

と、いいつつ、正直私がこれまで見てきた燃えている投稿は、「こりゃ燃えてもしゃーなしやな」ってことが大半である。だから実は、いまんとこ①で書いた理由があてはまらない。だけど、教員全体として、やはり燃えているのを見かけたら「あ、これ燃えるんや、やめとこ」っていう教員もきっといると思う。それにより、少しずつ学校からおかしな実践が消えていくのを一応期待できる。

ただ、このご時世に簡単に燃えそうな採点をするような教員ってSNSの感覚に疎いんやろな、っていう偏見もあるから、まぁこれについてはどうかな、って自分でも思う。

 

晒しを支持する理由③:被害者がいない場合は多い。

「採点晒し」とかが最たるものだが、教師の実践が炎上する場合と、企業や有名人が炎上する場合とで違うのが、個人が特定されない場合がほとんどということである。

その理由は、投稿する側が保護者である場合がほとんどであることに起因する。もしSNSで学校の実践を晒した場合、「実践をした教員が特定される=自分の子供が特定される」と同義なので、発信者側は(少なくとも自分の子供は)特定されないように気をつけて発信する意識が働くからである。結果、(晒された教員は気がつくのかもしれないが)「やったことは否定されても、それをやった個人は否定されない」というSNSの炎上にしては珍しく良心的な結果になっている。個人としては、「確かに間違えてはいるが、必要以上に叩かれすぎて、再起不能になる」みたいな結果になりにくいからこそ、学校の「非合理な実践」を晒すのを支持する理由が大きい。

 

逆効果な教員垢の擁護

あと、トンデモ採点が燃えたときとかに、投稿者に対し反論したり説得したりするいわゆる「擁護コメント」をしている教員アカウントがいるが、正直「逆効果だからやめたほうがいいよ」と思っている。

 

「間違えたからってSNSに晒すなんてよくない。本人に直接言え」という系の反論

「本人に直接言え」は、認識が完全に違うと思うので思い直してほしい。燃えている投稿の多くは、学校側の主張に「合理性がない」と投稿主および多くの人が考えられるものだからこそ燃えている。加えて、保護者の視点からして、子供を自身の目から離して日中預けている以上、基本的には教員が家庭よりも力がある立場だ。「合理性のない(と保護者からは見えている)教員に対して『本人に直接言え』」なんて基本的に「無茶言うな」というほかない。

例えば、会社勤めの人が「職場で上梓にされたパワハラの愚痴をSNSでつぶやくことについて、「パワハラと思うなら本人に『やめて』と言えよ」というリプライがあったとしたらどう思うだろうか。まぁそれは無理だからSNSに吐き出しているんだな、ってのは普通に考えたらわかるし、そういったリプライがついていたら、クソリプの類とみなしてよいだろう。そういった状況と同じだと私は思っている。

保護者視点、合理性のない学校の所業を投稿したら、「担任に直接言え」なんていう教員垢からのツイートが来たら「教員からクソリプ来た。やっぱ教員ってクソやな」としか思わないだろう。結果、学校擁護をしたつもりが、学校への信頼を下げる逆の効果しか生まないのじゃないかと思っている。。

 

 

以上から、基本的には「学校のおかしいところ」をSNSに投稿する行為は、学校側にも保護者側にも、広い目で言えばメリットのあることだと思っている。イチ教員としては、もし炎上してる実践を見かけたとしても。少し冷静になって、自分の実践を見直したり、教員の信頼を下げる投稿をしないほうがずっと有意義だな、とは思っている。

 

あ、思い出したから追記。

トンデモ採点系だけど、「学問的には正しいけれど、授業で言ったことと違うから」とする教員はもれなくクソなので、我が子の担任がその類だった場合は気をつけよう。「勉強というのは、先生の言うことに従うことだ」と子供が認識したらまずいですから。

徒然駄文〜 無意識に線引きする小学校の先生たち

小学校の先生の「苦手なことがある児童」への理解は進んできたと思っていた、がそうでもないらしい。

 

小学校の特別支援学級といえば、在籍する児童は自分の特別支援学級だけでなく、通常学級の教室に入って一緒に授業を受けたりする機会が多々ある。(いわゆる30人以上で構成される学級。便宜上通常学級と名付けておく)いわゆる「交流学級」とか「親学級」と呼ばれているシステムである。自治体によって方法は全然違うと聴いているが、多かれ少なかれどの小学校にもそういった機会はあるだろうと思っている。

 

私も昨年度から特別支援学級の担任をしているが、在籍の児童が通常学級に入って生活する時間がかなり長い。

私の感覚の話であるが、通常学級の担任の先生でも、特に若い先生を中心に、比較的理解を示してくれる先生は多い。例えば「授業中に声を出してしまう」とか「時折忘れ物をする」など、学級の多くの児童とは同じようにできないことについて、叱責したりとか「みんなと同じようにしなさい」のような指導はあまりしない印象だ。(もちろん「何でもOK」ということではない。だめなものはちゃんと注意してくれる先生がほとんどだ。)

 

当初はこの小学校の様子をみて、だいぶ小学校でも理解が進んできたな、と思っていたが。まぁでも別にそうでもなかったとすぐに思った。このように特別支援学級の児童には配慮を見せる先生が「通常級に在籍する児童」には全く配慮を示さないのをここ1年半でたくさん見てきたからだ。

結局、先生が見ていたのは「支援学級の児童」か「通常学級の児童」かで線引をしていただけなのだろう。配慮や特別な支援は「支援学級に在籍する児童のみ」にされるべきだと勘違いしている人が本当に多い。支援学級の児童がやったときには、優しく聴いてくれる先生が、同じことを通常学級の児童がやった場合には厳しく叱責する。その子が何度もやってしまうことを何度も叱責する。挙げ句に「(自分がよく叱責している子を)支援学級に入れられないか」などと支援学級担任である私に相談してきたりもする。

その度に私は辟易しながらも「宿題を少なくしてあげる」「モノ忘れについて緩くしてあげる」など、クラスでできる簡単な配慮を提案するのだが、毎度のように「いや、一人だけ特別扱いはできません」とはねのけられる。その先生自身は、教室に出入りしている特別支援学級の児童にはとても理解配慮をしてくれる先生なのに、だ。

 

結局、支援学級か通常学級か。そういう風にしか見ていないのだな、と思う。

 

「手帳があるかないか」「診断があるかないか」「支援学級か通常学級か」で線引きして配慮をするかしないか、の二者択一で考えを検討することは学校現場ではよくないと思っている。あるところで線引をにすると、ラインぎりぎりにいて、「配慮しない」側に入ったものがめちゃくちゃ不利益を被るからだ。この世の中は白と黒で分けられるものじゃないから、グレーゾーンが必ず存在する。学校現場でいうなら、「通常学級でできる限り個々に合わせ、通常学級でできる配慮を最大限しても学校生活が難しい場合に校内リソース(支援学級など)を活用する」ことが理想的かと思っている。

 

いずれにしても、こういった先生が一人二人じゃなく本当にたくさんいる。

 

特別支援学級に在籍している児童にすら全然配慮しない先生もいるが、そういった先生は本当に少数派だと思うし、年配の方に多く、若い先生にはほとんどいない。

しかし、通常学級にいる「ニーズがある児童」を「ただのできない児童」だと認識している先生が本当に多い。言動からは「支援児じゃないんだからちゃんとやれ」の思考が垣間見える。これはまだまだ特性の理解が進んでいない証左。

 

支援学級が要らなくなった世界が、理想形だと思っている私としては、先は長いな、と思っている。

最近のこと適当に

最近の何もする気にならないのが気になる。

 

PCの話。

個人用PCを先月買い替えた。前のPCをメルカリで売却して頭金に。

MacbookPro(2020)の下位モデルにした。

教職員割引でLogicProXとかFinalCutProをインストールした。別に動画編集の予定はないのだが、まぁFinalCut触ってみたかったので適当に触ったけど、まぁ使わんかなって感じになったので勿体なかったかも。

LogicProXで遊ぶのはおもしろい。別に作曲とかはできないけど、好きな曲をコピーしたり楽器変えたりするアレンジするのはおもしろい。

仕事にはまったく使えないので趣味自己満の領域。

 

ゲーム

最近はスマホゲームの人狼ジャッジメントにハマってる。チャットで人狼するやつ。

新しく買ったPCでエミュレータで起動してやっています。PCのキーボードでやるのが快適。

結構強い口調で煽られたりするので最初は辛かったが今は気にならなくなった。メンタルの強化になってる気がする。

 

職場の話。

首都圏内の小学校勤務だが、とりあえず運動会とか修学旅行は1学期の時点で中止が告知された。これは英断だった。というかそうでないと授業時数が絶対足りない。

だが、2学期になって「修学旅行代替案」や「運動会代替案」が校内の熱狂的職員や管理職からちらほら出ている。

正直、いまさら正気か?と思っているが、二言目には「運動会がないなんてかわいそう」「こどもたちに何かしらやってあげたい」とついてくる。

運動会ってそんなに皆やりたい行事なのか?まぁそうなのかな。

特別支援学級の担任の私としては、在籍する子供が誰一人として運動会をやりたい子がいないから、「運動会代替案」に好意的に受け取れない。運動会シーズンは、練習でスケジュール変更や騒々しさがすごいことになるので、特別支援では、この時期が苦手な子が非常に多いからね。

 

いずれにしても、2学期途中から言い出してやるような代物でもない気がする。だいたい、夏休みも大幅カットしてまで授業時数確保してるんだから、行事云々の話は今年は諦めよ、っていうのが私の感覚なんだが。

おそらく私の感覚のほうがずれてるのかもしれない。

 

この暑さで最近、特支の子たちは荒れ気味で、毎日子供が下校するとぐったりする毎日。わたし自身も暑さでバテているのかも。

 

最近の勉強

延期になっていた公認心理師の試験が12月に実施されるらしい。

心理学の勉強は日常でも無駄にならないので、「試験勉強」って思わないようにしています。

 

そんな感じの毎日。ブログ更新したいけど書く気力あまりないし、ネタもないのでだらだら書いた。

 

 

 

「教育実習なしで教員免許取得」!?〜学生さんが一番かわいそう、と思った話〜

「教育実習」をしなくても教員免許がゲットできる?

教育実習なしでも教員免許 コロナ禍特例、文科省が通知

https://news.yahoo.co.jp/articles/817e9afe2571bdaac88868609948a014ff08a79b


本日、文部科学省が教育実習を、大学の授業で代替できる、という特例を出しましたね。
コロナ渦で、実習生の受け入れ先(一般の小学校・中学校・高校・特別支援学校)が受け入れ困難で、学生が教育実習ができず、免許取得できない状況への対応ですね。
記事では「真にやむをえない場合」「(教育実習は)原則はやってもらう」ということとなっていますが、これにより、教育実習未経験で教員免許を取得する学生が出てくる可能性がでてきたわけです。

予想される反応としては、「実習していない学生が教員になってもいいのか?」「教員の質の低下につながるのでは?」とかがあるかな、と。

 

正直仕方ないよね


まぁ地域によって全然違うんだろうけど。
まず学校の負担。
私の勤務校も、都心近い立地もありまして。いつ感染が広がってもおかしくない状況です。その中で、あまり外部の人を数週間も出入りさせたくないってのもありますよね。

仮に学校で感染が広がったとき、そこに教育実習生が入っていたら何処が責任とるの?とかね、余計なことも考えますし。

そもそも、教育実習生を受け入れる、っていうこと自体、学校としてはとても大きな負担なんですよね。これは内部にいなければわからないことですが。
これを、感染対策で雑務は増え、学校自体疲弊している中で、実習生を受け入れってののは相当な負担。学校の状況次第ではありますが、教育実習生を受け入れることができない(断る)学校が今後増えてくるのは予想できます。

かといって今の教員志望の学生に免許を与えない、ってことは、絶対できないと思います。
だって人足りてないんだもん。今って毎年多くの新卒の教員が採用されますから、採用希望者数が教員免許が取れないせいで目減りされたらそれはかなり痛い。日本の学校は採用試験のウラで「採用試験落ちた人を「講師」で現場の穴埋めに使う」という前提の設計になっているので、倍率が見かけ上高くても実質必要人数は足りてなかったりします。

まぁなので、「実習できなくても免許与える」措置をしないと、多分来年以降全国いたるところで「詰む」自治体が出てくるのは容易に想像できるので仕方ない、っていう感想です。

 

実習しないと教員の質は低下する?

で、「教育実習なしで教員免許与えて、教員の質は低下しないのか?」っていう指摘についてですが。

結論から言うと「しない」っす。まぁ私の考えですが。正しくいうと、「教育実習が、教員の質を上げる効果が少ない」です。そもそもたかが2、3週間の実習で、学生が習得できる技術なんてたかが知れてるし、巷で言われる「教員の質」を本当に上げたいなら、教員養成課程全部に言及すべきですね。

まぁ「身だしなみをちゃんとする」とか「勤務時間内にスマホを触らない」とか、そういった学校現場の常識を、学生のときに知れる、みたいな効果はありますけどね。「教員の質」って教養に長けてる、とか、指導力がある、とかだと思うので、教育実習自体の影響力は本質的には小さいかと思っています。
実習なんて「教員養成」のカリキュラムのわずか一部だし。

そもそも私は、今の教員採用のシステムや、教員免許取得のプロセスについては強く批判的で、「今のシステムを続けている限り、教員の質は下がり続ける」と思っています。
今、教員免許を取得するのって特別大変なことじゃない。
大学に通える経済力があり、実習含む必要単位を取る根気さえあれば、免許だけは取れる。免許取得過程に、特殊な技能や知識の習得は求められませんからね。授業を受けさえすればいいというか。この辺が国家試験がある医師免許とかとは若干違うんですよね。
教育実習についても、基本的に「2,3週間、休まず出勤する」ことさえできれば実習の単位は普通はもらえる。仮に実習の受け入れ先が「うわ、コイツ教員なってほしくねぇ〜」って思うくらい態度が悪くても、通えさえすれば「教育実習」の単位はもらえてしまいます。

まぁなので、くり返しいうと、「教育実習をしたかしてないか」は教員の質には「ほぼ」影響しない、というのが私の主観ですね。

 

というか、教育実習って、学生のためにあるのよね

今の「教育実習」って、学生のための、「オレって教員に向いてないかも?」をチェックする場以外のメリットないと思うんですよね。
多分教員免許をとりたい学生って、まぁ「絶対教員なりたい!」とか「教員にめちゃくちゃなりたいわけじゃないけど、まぁ免許だけでも・・・」とか色々だと思うんですけど。
「試しに2.3週間働いてみよっか?」ってのが教育実習だと思うんですよね。多分、学生からすると、先生のイメージと、実際の先生の仕事、って結構乖離あると思うんですよね。実際に中から見て、「最初は夢見てたけど、やっぱり無理・・・」とか「教員の仕事できるかわからんかったけど、意外とできそう・・・」とか、そういうのを学生自身が確認する場だと思うんですよね。
さっきも言ったように、教育実習で得られる知識・技能、なんてたかがしれているので。「自分の適性を知る」ことのほうがはるかにでかい。

だから、「教員の質」云々の議論よりも、そっちの方が心配。
つまり、

 

「実習行かずに免許ゲット」→「なんとなく採用試験受かっちゃった」→「現場入ってみたらイメージとのギャップに絶望」→ソッコー退職

 

 

みたいなことがあるかもな〜、と。
「自分は向いてない」って学生時代にきづければ、そこから社会人になる前にに軌道修正はある程度できるでしょうからね。


なので。

来年入ってくる新卒教員が「教育実習していない」と言ってきたら、例年以上に優しくしようと思いました。

という話。

 

「文系でもよくわかる世界の仕組みを物理学で知る」を読んだ感想

AmazonのPrimeReedingで読んだので感想を書いてみる。

 

 

著者は高エネルギー加速器研究機構素粒子原子核研究所教授の松原隆彦先生。専門は宇宙論らしいです。

 

 

本の概要

 

「物理学」が我々の生活にどう結びついているのかを解いた本です。計算式がほぼなく、そういった計算式にあまり馴染みがない人(=文系)も読み物として読めるような構成になっています。

 

1章 物理学で世界の見方が変わる

2章 物理学者の正体

3章 空の上の物理学

4章 私達はなにを見ているのかー光の話

5章 すべては粒子でできているー素粒子、原子、分子の世界ー

6章 時間はいつでも一定かー相対性理論を考えるー

7章 意識が現実を変える?ー量子論の世界ー

 

 

本の感想。

「よくわかる」と書かれているが・・・

少なくとも子供むけではないと思います。

よくある「なんで〇〇は〇〇なの?」みたいな本って沢山あると思いますが、どっちかっていうと新書っぽい構成なので、大人向けだと思います。

 

大学くらいまで理系の勉強をしている方ならもしかしたら常識的なことかもしれませんが、それ以外の方にとっては何かしらの新たな発見があるのではないかと。私の中では「物理を中心とした教養本」と位置づけて読んでいました。

 

また、文系でもわかる、といいましたが、高校レベルの数学・物理と化学をかじっていないと厳しいかも。特に4章以降の光の話は、粒子・量子の概念をもとに話しているので。説明はしてくれていますが、「原子って何?」レベルの教養だと読むのしんどいと思います。

ただ、高校の学習くらいはなんとかわかります、ってレベルなら全然読めるのかな、と。私も大学は理系ではなかったですが、おもしろい、と思いながら読みすすめることができました。

 

小学校教員、結構おすすめかも

結構小学校の先生やってると、子供に「なんで空は青いの?」とか聞かれるじゃないですか。その中で「光が散乱するからだよ」とかすぐに言えたほうが話広がるから、教養は多いほうがいいと思ってます。

そういったネタもいくつかあるので、普通におすすめ。

そんなにじっくり読まなければ60〜90分位でよめますし。章ごとに話題が変わりますので(4章以降はつながってるけど)読みたい章だけ読んでも全然教養増えます。

 

使えそうなネタ

「なんでLINE(本文ではメール)は他の人には届かず自分に届くのか?」

「なんで3D映画は立体に見えるのか?」

「(ポケモンGOで使われるような)GPSはどういう仕組みか?」

 

個人的に学んだこと

 

アインシュタイン相対性理論

アインシュタインさんが相対性理論を考案した」くらいは知ってたんですけど、そういえば、相対性理論を説明しろ、って言われれば無理でしたね。この本読めば丁寧にわかりやすく書いてあるので文系の教養って点ではよいかと。

動いているものと止まっているものの時間の流れ方が異なる、というアインシュタインが最初に提唱した特殊相対性理論と、

重力の正体が時空間のゆがみであることをもとに、「特殊相対性理論」を一般化した一般相対性理論の2つがあることも初めて知りました。

 

GPSのシステムには一般相対性理論」「特殊相対性理論の理論が使われていること(地球と人工衛生が受ける重力が違うことや、高速で動く人工衛星と地上の時間の流れが違うことで生まれる誤差を、理論をもとに修正する)。

 

アインシュタインは、相対性理論を頭の中で作り、後から実験で証明した、という点が天才と言われる所以だということ。(普通は実験結果から理論を構築する)。しかも、公務員をしながらアマチュアで論文を書いていたらしいから、かっこよすぎ。

 

一般相対性理論の効果は現実世界ではほぼ感じられないがスカイツリーの屋上と地上では、100億分の1秒ほど時間の進み方が違うみたい。

 

スーパーカミオカンデの本当の目的

2002年小柴昌俊さんがカミオカンデで電子の仲間の「ニュートリノ」を観測してノーベル物理学賞。2015年に梶田隆章さんがスーパーカミオカンデニュートリノの振動を発見してノーベル物理学賞を受賞。

ってことで、私もスーパーカミオカンデは「ニュートリノとやらを観測する機械」なんだと勝手に思っていましたが。

 

本来の目的は大量の水を入れたタンクの中で、陽子の崩壊を観測するものらしい。(陽子が崩壊するならば光が出るはず)でも、まだ陽子の崩壊は観測されていないらしい。代わりに偶然にも宇宙から来たニュートリノが発見されたらしい。いや〜、普通にニュース見てただけでは知らんこともあるよね。

 

まとめ

読み物として普通におもしろかった。

多分教員とかやってたら話のネタになるから教養としてよい。

AmazonPrime入ってる人は無料で読めるしぜひ。

 

あとがき

続編が出てるらしい。PrimeReedingにはないので買おうか迷い中。