【本】『凡人道~役満狙いしないほうが人生うまくいく』を読んだ感想
本の概要
著者であるひろゆき氏が、これからの日本を生きる「特別な才能のない人」に対し、生き方の心得をまとめた本。
日本全体は、今後の未来として低賃金化や治安悪化など環境が悪くなる未来は避けられないとしながらも、大きな希望がなくても楽しく生きていけると主張している。
章ごとにマンガも入っているのと、簡易な話し言葉で書かれているのでとっても読みやすい。
私はちょい早めに読んで90分くらいで読めました。
著者について
ひろゆき氏は2ちゃんねるの開設者で有名ですよね。今は何の仕事をしているかわかりませんが、ネット番組やテレビにちょくちょく出演されているのをお見掛けします。
私自身は、YOUTUBEでときどき生配信をされているので、アーカイブを拝見しています。動画は編集ほぼなしだし、音質も画質も低い感じです。が、ひろゆき氏ほどの儲かっている人があえて質素な感じで放送をやってるからこそ、その話の内容については納得感が多いコンテンツ化と思います。
本の感想
率直な感想では、ひろゆき氏らしい本。
というか、彼が普段生配信で言っていることの中で「才能ない人の生き方」の部分だけをまとめたような本になっています。
なので、彼の配信をチェックしている方にとっては、「なんだ、いつも言ってることじゃん」と思うかな、と。ただ、あんまり放送見たことのない人にとっては、この本は彼の主張をわかりやすく知れる本になっている、と思います。彼の配信ってダラダラコメントに対し雑談しているような感じなので、1から今までの放送をチェックするのは無理なのでね。
基本的に彼の主張の根底にあるのは「社会や他人については諦め」たうえで、「自身の幸福が最大になるようにする」ことを意識して生きることが大事。ということだと理解しています。社会や他人がよくないのはしょうがない(=期待しない)ということを思ってしまえば、楽しく人生を送れるってことなんだと思います。
心に残った部分を自分に置き換えて考える。
「好きなことで生きていく」に囚われない。
ひろゆき氏は日ごろから「仕事というのは、基本的にみんながやりたくないこと。だからお金がもらえる」ことを口にしています。なので「好きなことを仕事にする」ことはみんなができることじゃないと指摘しています。なので「そこまで苦じゃない仕事を天職と呼ぶ」結論を出しています。
このことを自分に置き換えると、去年までは特別支援学校で働いてたのですが、その時の仕事は「そこまで苦じゃない」仕事でしたね~。ただ、やりがいがめちゃくちゃあったか、と言われれば微妙でした。
現在は小学校の特別支援学級で勤務していますが、今は昨年と逆で、「仕事は苦が多いけど、やりがいはある。」って感じなので。って考えると、私の天職は特別支援学校のき教員なのかも。と。
「四大卒」の下駄が必要な人は多い
これもひろゆき氏が配信でよく言っている内容ですね。「特に才能がないなら4大卒」に行くべき」というやつです。最近では、特にインフルエンサーや有名人などが、「大学に行くだけでなんとかなる時代はなくなる」という主張をしている中で、ひろゆき氏は一貫して「Fランだろうが大卒の資格はとるべき」と主張しています。それだけで就職や収入の可能性があがる、「凡人道」というものなのでしょう。
確かに理想論としては、学歴かかわらず、能力に応じて評価がされる社会であるとよいのかもしれませんですが、現状いまの日本ではそれは望めないですよね。「能力がなければ大卒をとれ」っていうのは理にかなった選択なのでしょうか。質の高い学問が重要だと私は感じているので、資格取得みたいなノリで大学に進学するのがあまり好きにはなれないのですが、個人の選択としてはそうなるよな、って感じはします。
本の読んだ感想まとめ
いつもひろゆき氏の著書や配信を観てしまうのは、彼の主張を聞いていると「何も特別な存在である必要ないんだ」って思わせてくれるからです。
私と同じ教員という立場に限定しても、インターネットを見ていると教育著書をたくさん出版されている方々や、教員の待遇改善に尽力している人たち、学会で実践報告をされている方々など、私よりもはるかに「特別」な人たちが様々いらっしゃいます。それを見るたびに「私も何者かにならなければ、教員になった意味がない」というような焦りを感じることが多々あります。
ただ、本書を読んで、「毎日楽しけりゃいいや」「楽しく教員やれているうちはそれを続けよう」と気持ちになります(今はそれも少し怪しくなっていますが)。もちろん、人の人生にかかわる仕事なので適当にしていいわけではないので、向き合っている子供たちに対しては私の与えられる最大限の環境は提供し続けますけどね。
ひろゆき氏自体は本当にテキトーな感じで本や配信をしてますけど、きっと彼に助けられている人、いっぱいいるんでしょうね。
今後の将来に不安を感じている人、焦っている人、一回はひろゆき氏ののコンテンツにあたってもいいのではないでしょうか。
【学校】同僚が俺の時間を奪ってくる。
他人の時間を大切にしない人っていますよね。程度のちがいはあるでしょうが、多分どの社会にもいると思います。
が、特別支援学校から小学校に転任してきて、その他人の時間を大切にしない人、の割合が一気に増えたような気がします。
というか、こういう人たち、まじでなんなの?
よくわからないのですが、ただひとつ言えることは、他人に自分の時間を奪われる、ことのストレスは半端ないということです。
時間外労働は絶対ある。
いやね、しょうがないですよ?
学校という職場は、全職員が定時で帰ることは基本的に不可能です。業務のトータル量的にね。
だから多かれ少なかれ、学校職員はみんな残業したり朝早く出勤したりして時間を捻出していると思います。
ただね、それでもちゃんと学校には「勤務時間」ってのがあるんですよ。というか本来は超勤4項目以外は残業を命じられないし。
今日中に、明日までに、を放課後に言ってくる。
「30分くらいで終わる作業だから今日(明日)までによろしく」みたいなことを言ってくる学年主任
いやいや、今、定時10分前ですけど?退勤後もメシつくったりとか子供の迎えとかいろいろやることあるんですけど?
退勤時間までに絶対終わらない会議を設定する分掌主任
まぁ小学校ってホント忙しくて、会議すらなかなか捻出できない。それはわかるし、たくさん分掌やトラブル対応を抱えている先生に対し同情もする。だけどさ、それでもなんとか時間内に終わらす努力しようよ。会議の内容も整理して、だらだら喋り場にならないように主任がテキパキ進行しようよ。
この前も校内での研修の方向性を決める会議に90分以上かかりました(定時を60分程度オーバー)。主任~、仕事しろ~。
みんなで一緒にやる作業を約束してたのに、急に開始を1時間遅らせる分掌主任。
「ごめん、少しやることあるから1時間後に呼ぶわ(そのとき勤務時間30分前)」いや、勤務時間30分も過ぎた時間に設定すんなや。
他にもいっぱいあるが、今の勤務校には「大切な時間を、奪ってすみません」感がない。なんか当たり前のように勤務時間外に仕事が設定されている。
前の学校と比べるのもあまり意味はないが、今の学校は結構異常な感じだと思ってはいる。前の学校では、少なくとも全職員が参加するような会議や業務は勤務時間内に設定されていたし、勤務時間外でしかできない仕事があったとしても、「時間過ぎているので、用事がある方は抜けてください」など一定の配慮があることがあった。
しかし、今の職場は本当に、誰一人「勤務時間外ですみません」的なことを言う人がいないし、終わるまで「全員でやる」のが当たり前になっている。もしかしたらそれが学校という職場のデフォかもしれないですが。でも、嫌なもんは嫌だ。
なぜ人の時間を奪うのに躊躇がないのか?
もちろん最終的には平気で時間を奪ってくるその人自身に聞かないとわからないんですけど。おそらく、様々な環境、経験から、みなさんそれぞれ「他人の時間を大切にできない」人間性になってしまったのだとお察しします。
これについては、またの機会に追加で書くとしましょう。
私自身は、そうなるまい、と。こうやって愚痴をネットに書くことで、何とか染まらないようにしている、そんな感じです。
さ〜、明日からも頑張りましょう。
【子育て】【教員】子育て休暇は”取る側”もキツイ。ってことに気づいたっていう話。
記事の概要
「子供の体調不良で仕事を休む」ことについて、気づいた視点をつらつらと書いた内容。
オチや結論は特にないです。
教員でも、子育てしてたら休まざるを得ない
子育てをしながら働いていると、絶対に避けられないのが「子どもの急な体調不良による早退・欠勤」です。(近くに助けてくれる親戚等がいる人は違うかもですが。)
妻と共働きになって、子供を保育園に預けるようになってから実感したが、幼児というものは本当に体調をすぐ壊す。
これまで勤務した学校でも「子どもの急な体調不良による早退・欠勤」をしていた先生はちょくちょくいらっしゃいました。
”急な”休みなので、当然残った職員がなんとかカントカその穴を埋めることになります。
”休まれる側”もですが、”休む側”もしんどい説
私にまだ子供がいない頃、特別支援学校で勤務していたことがあります。ある年度に、保育園に2人のお子さんを通わせながら、私よりも何歳か年上のママ教員と一緒に担任をしていたことがありました(特別支援学校では2担任・3担任が一般的)。
その方もやはり、お子さんの急な体調不良で、欠勤や早退も多くある先生でした。その先生が欠勤した際は、2人分の担任業を概ね私1人でやることになり、それによって私自身の勤務時間が長くなった面もあると思います。
ただ、そのことについて私は不満・負担に思ったことが、本当に一度もなかったんですよね。その先生自体、とっても一生懸命でいい人だったので、単純に協力的な気持ちだったということもあるかもしれませんが、私がその先生の分まで仕事をすることで「安心してお子さんを見てられる」、「子育てをしやすい環境づくり」に参加しているような気がして、ある種の充実感すら得ていたような気がします。
ある時、そのママ先生が早退した日にこんなメッセージのやりとりををしたことがありました。
ママ先生「私先生、〇〇の書類の締め切り、今日まででしたよね。家でやるので、ファイル送ってください」
私「〇〇、それちょうどママ先生の文までやっときました!お子さんにゆっくり看病してください!!」※送信:20時頃
しかし、最近になり私も”急に”休む側の人間になると、視点が変わってきました。
要は「自分がやるはずだった仕事を他の人にさせてしまっている罪悪感」をとても感じることに気づいたのですね。
やれるのに、やりたいのにできない、っていうのはこんなにも辛いんですね。
前述した、ママ先生とのメッセージでも、きっと「私のせいで遅くまで仕事をさせてしまった・・・」と思わせた、と。
教えてくれたらやったのに・・・と思うことも。
回想は終わって、現勤務校での話。大変ありがたい話なのですが、私が時々、子供の体調不良で休んだ次の日に学校に行くと、机上には「〇〇の事務処理、やっておきました」みたいなメモが置かれていることが多くあります。
本当にありがたい、助かる話なのですが、「その仕事なら家で看病しながらできたな・・・」と思ったりもしてしまう。やっぱり人に自分の仕事やってもらう、ということに慣れてなくて本当に落ち着かないんです。
今年度の学年は、LINEすら交換しない状況(グループの中にLINEをしない先生がいたので)で、学校の場以外連絡をとらないので、職場に戻って初めて、「自分が休んでいる間にやってもらった仕事」を知るので引け目が半端ないです。
(前の職場では学年がSLACKでつながっていました。SLACKだとファイルの共有とか送信とかめっちゃ楽ですよね)
いやいや、やってもらって何言ってんだよ、って感じですよね。代わりに仕事をやってくれた先生も、私に気遣って、退勤した私には伝えず、業務を肩代わりする選択をしたのだとわかっています。
自分が今後すること
子育てしている以上、年間1度も”急な休み”をしないことは無理なので、少しでもできることを考える。
① 割り切って残っている先生におまかせし、他の場面で恩返しする。
② 出勤できなくても自宅で少しでも業務ができるように、仕事の内容を自分から問い合わせる。
子育てしていない頃は、「いやいや、休暇とった職員に仕事の連絡とかしちゃだめだろ」「迷惑とかじゃないしお互い様。やれる人がカバーすべき」とか思ってたんですが、いざ自分が休む側になると、「迷惑かけちゃう・・・」「できることを少しでもしたい・・・」って思うんです。
超理想論を言うと、一人急に休んだくらい全然関係なく回る組織ならいいんですけどね。学校ってそういう組織じゃないことは知っているので。
最近の学校系ストレスの一。って話でした。
給特法の改悪について盛り上がっているので現時点での考察
給特法「改悪」!?
Twitterでの教員垢界隈で、盛り上がっている給特法改正の話題。
なんかもし改正されたら50年振りだとかなんとか。
だけど、ものっっっすごい「改悪」なんじゃないか、って話。
どうすんのこれ、まじで。
— 藤野 悠介@先生なのに会社経営してます (@thankstoryu) 2019年8月28日
先生方に切迫感まだないかもしれないけど、
導入されたら顧問拒否できなくなる可能性も。
子育て世代の先生方も大打撃。 pic.twitter.com/qKBQmzDDFu
そもそも給特法って?
文科省のページ(時間外勤務に関する法令上の根拠)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/031/siryo/07022716/003.htm
ここに書いてある給特法についてポイントだけ言うと。
給特法とは、
「教職員は、超勤4項目※において残業を命じて良い」
「その代わり給与調整額4%が支払われる(それ以外の手当はつかない)」
※超勤4項目・・・①生徒の実習
②学校行事
③職員会議
④非常災害、児童生徒の指導に関し緊急の措置を必要とする場合等
まぁこの中に部活動、とかが入ってなくて、建て付け上は教師の自発的な活動()ということになっているので、実質「法令に定められない仕事はたくさんあって、絶対に時間外労働をしなきゃならない状態なのに、残業代がもらえない」だけの法律になっているので教員界隈は問題視してる、悪名高い法律なわけです。
い、一年単位の変形労働時間制導入??
で、今回の給特法改悪の話。
どうすんのこれ、まじで。
— 藤野 悠介@先生なのに会社経営してます (@thankstoryu) 2019年8月28日
先生方に切迫感まだないかもしれないけど、
導入されたら顧問拒否できなくなる可能性も。
子育て世代の先生方も大打撃。 pic.twitter.com/qKBQmzDDFu
教員界隈が危険視してる「一年単位の変形労働時間制導入」
まだ文部科学省(内閣府)は法案を提出していないようですが、文科省が出している工程表の中に、たしかに「一年単位の変形労働時間制導入に向けた制度的検討」とあります。(2ページめの真ん中下らへん)
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/hatarakikata/__icsFiles/afieldfile/2019/01/29/1413144_4_1.pdf
「一年単位の変形労働時間制」っていうのはつまり、
「繁忙期は、忙しいから10時間労働しようぜ」
「閑散期は、暇だから、6時間労働(学校でいうと15時帰り)な」
って感じで、1年間で「勤務時間量を均そうね」って主旨だと思います。
で、なんでこれが問題なのかと言うと。
日々の部活動やその他雑務が、がっつり『業務』として命令できる。法律で認められることになる。ってことにあるんです。
というのも、前述したとおり、これまでの給特法において、勤務時間外に命じることができるのは、「超勤4項目」だけなんですね。つまり、これまでは、「17時以降の部活動を監督する義務は教員にはない」状態だったんです(でも断れずにやっている教員がほとんどだと思いますが)。
けど、この改正案(まだ正式には出ていませんが)が仮に通れば、正式に残業を命じる(というか時間外じゃなくなる)ので、管理職は大手を振って部活動でも校務分掌でも夕方19時20時まで命じることができるだろう、ってことです。
教員として最作のシナリオ
仮に「一年単位の変形労働時間制」が採用されたとして、
「最近忙しいから明日から、19時まで仕事してね〜(その分多めに仕事用意しといたから)。あ、その分、夏休みになったら15時頃帰っていいよ〜。それで1年通してチャラだよね」
が正式に可能になる。これ、ちょっと考えても教員にとってまったく嬉しくないです。
だって、今でも夏休みは帰れる日にはどうせ年休使って早く帰ってるんだもん。というか、1年のうち、夏休みしか年休を消化できる時がないですからね。それでもほとんど消化しきれない教員のほうが多い気がする。
今でももともと退勤時間+2時間くらいはデフォです。それでも、自分自身で「早く帰る日」と「遅くまで仕事をやっつける日」が多少仕事を配分してコントロールできるだけマシですが、「命令によって退勤時間が伸びる」ってことはそれすらできなくなりますからね。
まぁほとんどの教員は嫌なんじゃないですかね。嬉しいのは仕事をいっぱいさせたい管理職くらい?
といってもまだ何も決まってない話
法案がどんな内容なのか?通るのか?通ったらどのように運営されるのか?自治体ごとの判断か?各学校の裁量か?
私の調べる能力が不足しているかもしれませんが、少し調べても、ほとんどその内容については明らかにされていない。決定したことではありません。
正直完全実施は不可能だと思う。
仮に法案が通って仕事を命じられても、「どう頑張ってもできない」職員は絶対にいます(子育て・介護)。
私自身ももし退勤時間が19時になったら、辞めざるを得ないと思います。絶賛子育て中なので。
管理職も管理職で、
校長「明日から19時退勤時間にします」
ママ教員「無理なので辞めます」
パパ教員「無理なので辞めます」
介護あり教員「無理なので(略)」
になるのは明々白々なので、なかなか取り入れづらいでしょう。
また、学校や地域によって業務の内容も様々なので、「一年単位の変形労働時間制」をうまく使える学校もあるかもしれません(その場合、管理職にその判断が求められるのがネックですが)。
そもそも業務を改善してほしい、ってことなのに・・・
しかし、どこから「一年単位の変形労働時間制」って話出たんでしょうか。もともと、
「仕事多過ぎて、退勤時間までに終わらない」 ってのは「仕事減らしてくれ」って意味だったのに、
「あ、それなら教員の勤務時間伸ばしとくね(仕事は特に減らさない)」って発想な気がするんですよね。これが、教員界隈から批判が湧いてる原因だと思ってます。
悪くなる、って決まったわけじゃないけど
ちなみに、ここまで話したことは、現状ではほとんど推測です。まだ何も具体的なものが役所からは出てきていないので。
これまで学校システムや教員の業務について、文科省には絶望させられ続けてきた教員たち。最悪のシナリオを常に考えるクセがついちゃっていますからね。まぁ反発や不安も当然でしょう。
もし環境が悪くなったなら、自分が壊れる前にみなさん辞めましょうね。
逆に、環境よくなるかもしれないし、現時点であれこれ考えてもしょうがいないような気がしている私でした。
個人用PCをMacbookかSurfaceかで迷っている話
個人用ノートパソコンを変えたい。
今はMacbookAir(2012)を使ってます。今年はMacbookAir(2019)が出ているので何世代前だよ。。。
日常使い自体は全然行けるんだけど、容量がパンパンなのと、物理的に満身創痍感がでてきたので、正直代えたい。
が、うーん、どうしよ、何買お、って感じ。
今使ってるノートPC
結構細かな傷が。キーボードと画面の接続部も割れてたり。一応リンゴが光るモデル。
ディスプレイはマジ汚い。一度、拭いちゃいけないアルコールかなんかで拭いてしまって致命的になった。ちなみに画面が点いていればまったく気にならないが、スリープ画面を見られると恥ずかしい。
バッテリーはかなり弱っていて、フル充電から2時間半くらいブラウジングやテキスト打ちすると10%以下になる。(現状外出時に3時間以上PCを稼働することはほぼないので気にならない)
PCの条件
これまでの用途としては、
①プライベートでのテキスト打ち(ブログとか)ブラウジング
②学校業務(OFFICE)を職場外で行う(いわゆる風呂敷残業)。
③動画編集や音楽編集(公私どちらも)。
上記すべてを気軽にできるってことでMacbookAirは私にビッタシハマっていました。
①~③の順で頻度が多かったんですが、今年度から勤務した学校では②が多くなってきました。
③は頻度が少ないものの、imovieやGaregeBandが使いやすくてデフォルトで入っていたので、私が必要とするくらいの編集は難なくこなせたのがMacbookAirの強み。
仕事との互換性・・・(泣)
これまでは気になっていなかったんですが、今年度職場が変わって②学校業務が増えてくるとやっぱりOfficeの互換性が気になる。
今はOffice for Macを使っているけど、Macで作ったエクセルやパワポを職場のWindowsで開くとレイアウトやフォントを微妙に直さなきゃいけないことが発生するので二度手間だったりします。
持ち帰り残業がなければ環境と個人の嗜好的にMac1択なんですが。
ということで、いよいよWindowsもアリかな~と。以前Windowsをプライベートで使っていた頃は、OSはVistaだった記憶をしていますので、もし購入となれば超絶久しぶり。
気になっているのはやっぱりSurfaceProでしょうか。コンパクトさとパワーを考えるとこれまでと同じような使い方ができ、学校業務との互換性も当然OK。
今使ってるマシンより、少しだけスペックがいいものを買うつもりで見積もりをしてみる。
た、高ぇ・・・。
MacbookAirの新型を買うっていう手もある。
利点としてはこれまでと操作感がほとんど変わらず使えるってことでストレスがないこと。
Airdropとか便利ですよね。
SurfaceProと比べると安い。が、これだと学校の仕事との互換性の悩みが以前解決されず。あとは地味に純正メモ帳とか。Evernoteに完全移行してもいいんだけど、起動と同期の速さとか、純正メモ強いからなー。
iPadとiMacを別で持っているので一台くらいwindows持っててもいいなー、とも思う。
どちらにしろ急ににパッと出せる金額じゃないのでこの先1年くらいの自分の支出を制限する覚悟が必要。
どうしよ。
ちなみに個人用PCがMacの先生ってほとんど会ったことないんだけど、どんくらいいらっしゃるのかな・・・。持ち帰り残業がある(ことが多い)教員にはMacは合わないですよね。
うーん、悩む。
仕事の利便を取るか、個人の嗜好を取るか。
自分の頭で考えようー知識にだまされない思考の技術を読んだ感想
本の概要
ブロガー「ちきりん」さんの著書
ちきりんさんが日々どのように「考えて」いるかを書いた本。
思考テクニックやプロセスが、実際にデータ分析をする形で書かれているので、読者もちきりんさんと一緒に分析をしなふがら深めるようになっている。
2012年発行で、結構古いですが。kindle版で購入
本の感想
気になった点を抜き出してコメントします。若干原文と表記が変わっているものも
「知識」と「思考」を分けて考える。
これを改めて言われると全くできていないことに気づきました。
日々、教育や社会、経済など人並みに思考、しているつもりでいましたが、それらはあくまで「知識」として知ったものであって、「自分のアタマで考え」たものではなかったです。
特に教育関係の問題に対する分析は、有名な実戦家やブロガーのお言葉を鵜呑みにして自分の意見として人様に発信していることが多いような気がします。
この点については自身で意識していないと、気づかないうちに思考停止に陥るのでしょう。序章に書かれていた内容ですが、それに気づけただけでもこの本を読んでよかったです。
「意思決定プロセスは情報収集の前に考える」
洋服1着買うのにも、何かしらの判断基準がある(価格・デザインetc..)。それらを事前に決めておいてから、情報収集や分析を行うと無駄がない、ってことですね。
たしかに、学校でも「運動会について話し合おう」みたいな会議はときどきありますが「何を基準にして決めるか」を会議前に明らかにして会議に入ることで、時間を短縮することができるかもしれませんね。
プライベートでは、私は本を衝動買いすることが多いので、本屋で本を選ぶプロセスとかも決めてから本屋に入るといいのかな・・・。
「情報」を集め、結論としてアウトプットするのが思考!
できてない!しなきゃ!していこう!
ブログやTwitterはそうやって使わなきゃね。
「数字を見たら、「なぜ?」「だからなんなの?」」
「なぜ」→原因はなにか?
「だからなんなの?」→このあとどうなるの?
「判断基準はシンプルに!婚活女子を見習って」
婚活女子は「結婚して幸せになる」というはっきりした「目標の姿」を持つがゆえに、判断基準を「経済力」と「相性」の2つに絞り、相手を判断するそうです。
さらに、「どちらかがかけていた場合」、「経済力」>「相性」を優先するそうです。これには合理的な理由があって、「相性」は自分の努力でなんとかできる(歩み寄れる)可能性があるから、だそうです。
これくらい単純化できると確かに判断できない!ってことはなくなりそうですね。ポイントは評価軸を2本に絞るってことでしょうか。
「知識は「思考の棚」に整理しよう」
知識を丸覚えするってことではなく、「思考」してから頭の中に。
「頭の回転が早い」人って実は、「知識が入る前に事前に考えておく」ことを実践しているらしいです。だから新しいことを聞いたときにすぐ、「つまり、〇〇ってことですよね」と言える。「こういう知識が入ったら、こう考える」ってことを事前に考え終わっておくってことですね。うわ。難しい・・・。
でもできたらかっこいいですよね。少しずつチャレンジします。
まとめ
結局インプットいっぱい入れてもアウトプットできなきゃ意味ないですからね。
アウトプットがよりスムーズにできるようになりたい。この本が一つの材料になるのではないでしょうか。
小学校教師が「水分補給許可制」の謎ルールの意義を考察してみる
本記事の概要
最近、インターネットやテレビでも学校のいわゆる「謎ルール」「謎校則」に疑問を投げかける意見が多く見られるようになった。
しかし「ルール・校則の意義」は学校側の説明は一般にはあまりされない(保護者・児童にはしている?)。
私は4月から小学校で働きはじめ、4ヶ月が経った。正直理解に苦しむ「謎ルール」も確かに多くあるが、そのうちいくつかは「学校視点」になったことで、少し意義がわかったものもある。
そのうち本記事では、謎ルールのひとつ「水分補給制限」について考察する。
「謎ルール」にも一応の意義はある。
しかし、それ自体はやはり不完全さを内包している。
不完全さが解消されない要因には、「学校と社会の関わりの難しさ」がある気がしている。
※本記事では私の勤務校の慣例に倣い、「校則」という文言は使用せず「ルール」という言葉で代替している。
「水分補給許可制」についての批判
本記事を書こうと思ったきっかけになった、ある日の私のTLで目を引いたTwitter上の投稿です。多くのリツイートやふぁぼをもらっており、リプ欄には水分補給に関連する学校の謎ルールへの批判がぶらさがっていました。
一部だけ載せましたが、リプ欄では、命に関わることだけに、かなり辛辣なご意見が並んでいました。載せていませんが「戦前教育のままだ」のようなご意見もありました。
大人視点だと「謎」は深まるばかり
ここ数年、夏は異常な暑さですよね。そんな中で連日、学校活動中の熱中症の報道がされていましたね。熱中症寸前まで練習をしたり、学校側の水分補給配慮の不十分な指導が指摘されています。
そんな中、「水分補給に制限がある」なんて聞いたら、大人は「なんでこんなルールあんのww」って思うのは当然の感覚ですよね。
しかし、私が多くの学校のルールに対する批判を見ていて、と思うのは、
①「子どもは大人とは違う」
②「学校は不特定多数を一斉に見なければならない場所である」
という視点がない(まあ当然なんですけどね)ことが「学校意味不明すぎワロスww」になる要因かと思っています。
詳しく言うと、、、
①について。
子どもは未熟です。子どもと大人では「節度(ちょうどよいところ)がわからない」「集中・注意がすぐそれる」点において大きく違います。当たり前なんですが、節度もマナーも注意力(集中力)も発達しきった大人の感覚で議論してしまうと、「社会の常識とかけ離れてる!」「子どもがかわいそうだ!」になりがちです。
②について。
後でも少し触れますが、「小学生の行動を管理する」ことを学校に求め続けると、最終的には学校は「やっていいよ」「やっちゃだめ」の2パターンの画一的なきまりごとでしか決められなくなります。
「ケースバイケース」「状況による」が含まれるルールを一斉指導で小学生全員に理解させるのは難しいからです。理想論を言えば、一人ひとりに話して「この時はこうだね」「こういう場合はいつもとは違うね」と話してあげられれれば一番いいのですが、学校という場では、時間的にも人員的にも現状できません。なにしろ大人の数の30倍くらい子どもがいるのですから。こういったわけで「一律の」「制限が強い」ルールが発行されるのだと思います。
当然だが学校で熱中症になるのはNG
前提として、学校での活動中に児童生徒が熱中症になった場合、学校に全責任があることは誤解なきように申し上げておきます。それは人様の子どもの命を預かる側として当然です。熱中症の児童生徒が出ないように、健康観察や水分補給、冷房の管理など学校側は事前にできることはすべてやるべきです。
登下校中が学校の管轄範囲内かは少し曖昧ですが、登下校中のルールを学校側が呈示している以上、一定の責任を負うべきだとは思います。
「水分補給制限」の意義について考える
それをふまえて、小学生に「謎ルール」の「水分補給の許可制」。今日は3つのパターンのルールについて「そのルールが何に役立ってるのか」を考察していきましょう。
「謎ルール1.授業中の水飲み禁止」
ルールの意義 :授業に集中してもらう環境づくりの一環。
留意点 :緊急に水分を欲している子どもに我慢を強いる形になる
仮に授業中、自由に水飲みOKだとしましょう。もし大人であれば、授業に支障のない範囲で、周りの受講者の迷惑にならないように飲むことができるでしょう。
しかし、子どもは違います。音を立てたり、こぼしたりもするでしょう。また、大人と違い、授業を聞きながら飲む、なんて高度なことはできない子も多くいます。飲むことに必死になり大事な指示を聞き逃すかもしれません。また、集中が苦手な子には、水を飲むことに注意がもっていかれて、何度も離席を繰り返す児童も出てくるかもしれません。
「水筒を手元に置いてはいけない」のもおそらくこれが大きな理由で、小学生ってめちゃくちゃ物落とすんですよ。マジかよ、ってくらい。鉛筆や消しゴムなど、これは日々一緒にいないとわからないと思いますが、これも大人の感覚で考えてはいけません。低学年の教室で水筒を手元足元ににおいたら教室のあちこちでガシャンガシャン音となり集中できないでしょう。なので、多くの教室では水筒は所定の位置があると思います。
それでも熱中症がこれだけ深刻さを増している中、水分補給については担任の先生は常に意識し、配慮する必要があります。私の学校では、申告すれば授業中でも水を飲んでもOKにしているクラスがあります。手元に水筒をおいて授業をしているクラスは見たことありませんが、Twitterの教員アカウントの中にOKにしている先生もいらっしゃいました。(それでも高学年くらいにならないと難しいと思いますが)。いずれにしても休み時間には声をかけて全員が水分をとるようにしておくのは必須ですね。
ちなみに私のクラスは許可なし水飲みOKです。特別支援学級の担任で、小人数指導なこともあり目が行き届くからですね。まぁ本校はエアコン完備なこともあり、多くの場合45分は飲まなくてもやっていけているようですが。
「人が話しているときに飲むのは失礼だから」と子どもに教えている先生も多いようですが、私自身は適切ではないと思っています。「人が話しているときに水を飲むと失礼になる」かどうかは「時と場合に寄る」からです。「自分が必死で話しているときに、聞いている側が水を飲むのが嫌な人もいる」ことや「のどが渇いていても我慢しなければならないときもある」くらいは教える必要があるかもしれませんがね。
「謎ルール2.登下校中の水飲み禁止」
ルールの意義 :地域の人からのクレーム対策
留意点 :帰り道での命の危険
このルールについてですが、私の勤務校では登下校中の水飲みを禁止してはいないので、あくまで私の想像です。
おそらく、近隣の店舗や民家の方からの苦情があったのがこのルールが発行に至った発端なのではないでしょうか。
と、いうのも登下校中の小学生(ランドセルを背負った子ども)の行動によって、近隣の人に何らかの迷惑をかけた場合、須らく「学校に苦情が来る」んですよ。
水飲みの苦情を想像するとこんな感じでしょうか。
「おたくの小学生がうちの前でたむろして水を飲んでいる(なんとかしてくれ)」(想像)
「おたくの小学生が水を飲みながらだらだら歩いていて通行の邪魔(なんとかしてくれ)」(想像)
こういった苦情の悩ましい点として「対象の児童への個別の指導が不可能」なんですよね。その場にいたわけでもない学校の職員は、なにが不適切だったのかわからず、というか当該児童が誰かもわからず。行き着く先は、一律「登下校中の水分補給全面禁止」です。住民の苦情を意識しているからこそ、こんな理不尽なルールが作られているのでは、と思っています。
仮にそうだとしたら、その場で迷惑を被った人が小学生に注意してくれればいいのですが。そうすればそこで完結しますからね。ただ、今の時代、子どもに注意ができる大人、も少なくなっているのではないでしょうか。だから学校に連日苦情が来るのでしょう。私の勤務校でも、児童の近隣でのお店での態度や登下校中の態度などについて苦情は連日来ていますし、その度指導をしています。しかし、時間のないなか行われるその指導はやはり画一的なものにならざるを得ませんね。(「登下校中、しゃべるの禁止!」ってなりそうで怖いです)
と、勝手に「登下校中の水飲み禁止」の意義を考察しましたが。多分に想像が入っているので違うかもしれません。「登下校中」のルールということで近隣の方たちを意識したルールなのは濃厚だと思うのですが、、、私の思いつかない意義が他にあるのかもしれませんね。
でも、普通に考えてこの暑さの中、子どもの足で30分くらい歩く子どももいるわけですから。多少の迷惑が発生したとしても水くらいええやろ、って私は思います。これは学校にも近隣の皆様にも理解してほしいところではありますね。
謎ルール3:「校外学習で移動中の水飲み禁止」
ルールの意義 :円滑・安全に行程をすすめるためのルールの一つ
留意点 :周りから見たら「小学生理不尽。。。かわいそ。。。」ってなる・
これはですねー、なかなか大勢の子どもを連れて出かける体験をしないと理解し難いかもしれません。
大人の感覚だと、「いいじゃん水くらい。そんな迷惑かからんし」って思うでしょう。しかし前述した通り、「小学生はまだ節度について理解が未熟」です。なので、「一般に飲んでは行けない場所」などで知らずに飲んでしまう可能性があります。そして集中力も未熟ですね。もしかしたら車内で飲んで水をこぼすかもしれませんし、飲んでいるときに先生の指示を聞き逃すかもしれません。
校外学習では、見学先など学校以外の人たちも関わりますし、公共交通機関を使う場合は一般のお客さんとの接触も考えられます。そして事故のリスクも校内の活動の何倍も上がります。子どもたちも楽しい行事でテンション上がってますしね。なので、校外学習中は校内よりもルールを「細かく」「厳しく」する場合が多く、教師側もピリピリしていることが多いです。
上のツイートで注意された児童(生徒?)にとって理不尽に感じたかもしれませんし、周りからしたら「水くらいで何を。。。」と思うかもしれません。ただ、上記の内容をふまえて状況を見ると、おそらく「許可されたときだけ水を飲む」といったルールを設定されており、「水を飲んだこと」ではなく「ルールを破ったこと」、について先生は叱責したのではないか、と推測することができます。(その叱責の仕方が適切な指導だったかどうかはまた別の議論です)
もちろん、子どもたちが「安全に帰ってくる」ことが大事なので、多くの場合、水分補給の時間等も用意されていると思います。ただ、お子さんによっては水分補給の配慮が不十分な場合もあるのかもしれませんし、それについては引率側は常に確認しながら勧めていかなければなりません。
子供たちのためにできることは
さて、3つの「水分補給制限ルール」がもつ意義について考察したところで、思ったことをつらつら。
ルールに縛られると自主性・考える力が育たない
この指摘はめちゃめちゃ正論だと思います。学校っていうのは本当にルールが多い。そして、小学生段階だと、「なぜだめなのか」はあまり考えず(考えているかもしれませんが言動には出さずに)、従順にルールを守る子がほとんどです。しかし現代の変化の激しい時代を生きていくためには「自分で考える」力が必要である、そこには私も同意します。
この先、これまでの縛りを少しずつ緩和し、子どもに「自分の判断で行動を選択する」幅を広げていく動きが学校では重要ではないかと思います。
学校の緩和できない事情
最近学校のルールに言及する風も感じており、学校内にルールの緩和を提起する声も出始めていると思います。一方で、校内にもありますが、それ以上に地域・保護者からの要請(圧力ともいいましょうか)が障壁になっているケースは多々あります。
宿題を出さなかったら、保護者から苦情が来た事例が報告されたように、下校後の小学生の態度まで管理をするように要請されます。「もしルールを緩和したら、地域・保護者からまた苦情を言われるのでは?」そんな思考が、管理職はじめ学校全体に根深く浸透しているのです。
前述したとおり、謎ルールにはそのルールなりの「意義」が必ずあります。「謎ルール」への批判や意見については、そのルールが「社会一般と比べて不自然かどうか」よりも「そのルールがもつ意味を別のもので代替可能か?」の視点がないと、ただの学校への誹謗だけで終わってしまう、内部にいるとそう感じます。そうなると結局何も変わらず、最終的には子供と学校、どちらも苦しんで共倒れです。
ルールは場面場面で違うことを教えていきたい
今せめて、一教員、そして1児の父としてできること、それは組織(集団)の数だけルールはある。ということを子どもたちに教えていきたいです。
学校での「謎」ルールは社会人からしたら「謎」でしょう。しかし、そのルールは何かしら理由があって存在しています(すべてのルールが適切なものとは言っていません)。
「学校のルールは、社会一般からしたら謎だし変だよ」だけ言ってしまえばそりゃそうなのです。なぜなら「社会」と「学校」は違う。一番はじめに言った通り、「不特定多数の未熟な人間が集まり、共に成長をしていく場」なのです。成熟した人間が過ごす社会一般とはルールが違って当然です。繰り返しになりますが大事なのは「社会と同じかどうか」ではなく、「なぜそのルールが必要なのか」だと思っています。
学校のルールは多くの場合、「学校という特殊な場だから」必要なルールが多くあります。学校のルールを守ることがすべて「社会でも生きる」とも思っていません。
なので例えば小学生が学校外で、「学校では、先生が許可するまで水飲んじゃいけないルールなんだ(だから飲まない)」と言ったとしたら、「学校ではそうなんだね。ここでは、自分のタイミングで飲んでいいよ」と言ってあげたいです。
この先、私なんかには想像もできないだろう様々な環境で活動することになる子どもたちには、「学校のルールが絶対」ではなく、せめて、その場その場で「ルールは環境によって違う」ことを知ってほしいと思います。
厳しいルールはときに誰かを集団から弾く
水飲みとはすこし外れて蛇足です。
私は現在小学校の特別支援学級の担任をしています。数え切れないほどある「学校のルール」のいくつかについて、「ルールを守る」ことが難しいがために特別支援学級に在籍している(本人にとっては、特別支援学級にいることを余儀なくされているといってもいいかも)児童もいます。なかなか全体指導に注力したルール作りをしていると、そういったところは見落とされがちです。そこも忘れないように考えていかなければ、です。
教師が一般感覚からズレているのは認める
我々教員は「謎ルール」に囲まれ、ルールを作りながら生活しています。「謎ルールがある生活が当たり前」な中、問題が起きたら「禁止ルールを増やす」「そのルールを守らせる」、ことに指導の方向性が向かいがち否めません。これは学校という組織の病かもしれません。「そのルールの意義は?」「他に方法は?」と常に職員は考えていかなければなりませんね。あとは、子どもたちが社会に出たときに、ギャップを感じにくいようにしてあげたいですよね。
若手の先生たちの中には自分のクラスで「子どもたちに考えさせる」というのを意識してやっている人もいます。「きまりは最小限に」という方法は、理想的かもしれませんが、運営の労力はかなりかかります。けど、今の学校のガチガチな感じは社会の多様なと個性を求める社会の方向性とマッチしていない、と考える先生もいるのかもしれません。
まとめ
今日は水分補給の「謎ルール」について、その意義について考えていき、最後はなんかまとまらなくなってしまいました。
「水飲み制限」の意義がないわけではないってことだけ伝われば。
今後もルール作りのあり方は「ルールを作る側」が慎重に考えていかなければいけません。